2歳目前の育児を通して自分と向き合う

結婚して主人と保育園に通う娘一人とワンコと暮らしている兼業主婦です。日々のことや育児を通してたまたま調べ、自分に当てはまっているのではと思う発達障害のことについて書いていこうと思います。

私が会話が苦手な理由3

その後、バイトもするようになり家にいる時間が短くなったことで、


心落ち着ける時間が増えていきました。


彼氏もできたりしていろいろあるけどなんとなく楽しい生活へ変わっていきました。


その後父も仕事がそれなりに安定し、前よりは財政状況は悪いもののなんとか生活


できるようになっていきました。


私は滑り止めの高校だったせいもあり、成績は常に上位グループでした。


高校三年生のとき、先生から指定校推薦で大学にいけるけどって話をもらいました。


でも私は就職するつもりでした。いろいろあったので早く社会人になって


独立したかったのです。


そんな頃父から、大学には行ってほしい。自分が大学に行けなかったせいで


いろいろ苦労した。本当は公務員にでもなってくれればうれしいと言われました。


少し迷いがでてきてしまいました。


先生にも相談しました。


この仕事がしたいって明確なものがなければ大学に行くのも手だよ。


私が指定校推薦で大学をければ、その下の子に話を振るからとりあえず考えてと言われ、


父に、金銭面は心配いらないといわれ結局大学を選びました。


でも大学2年になるときに、またしても言われたのです。


授業料払っていないから。


またしてもです。父が一緒に事業を始めた人がいたのですが金を持ち逃げしたのです。


またリストラみたいなものです。


大学1年のお金はおばあちゃんが私の成人式用にとくれたお金があったそうなんですが


それをまるまる充てていたらしいです。


それなら、奨学金だってなんだって方法はあったはずです。


大学生って学生ですけどきちんと大人でもあります。


これからも私の人生です。相談ぐらいしてほしい。


絶望しました。


その次の日は2年の大学の教科書を友達と買いに行く約束をしていましたが


それどころではないので、友達にも付き添ってもらい奨学金の申請や退学についても


聞きに行きました。


なんとか奨学金も間に合うかもしれないといわれましたが、昨日そんな話を聞いて


の今日、18.19歳の私にはいきなり奨学金を組むってことを決断できませんでした。


いきなり300万とかローンかかえているってその頃の年齢で想像できませんでした。


またしても母に「進学することばかり考えてんじゃねーよ」と言われ、もう頭にくるとか


なかったです。この先どうやって生きていこう。それしか考えていませんでした。


結局退学を選び、1年はフリーターになり、バイトたくさんして生活しました。


その後やっと就職し一度転職をして今に至ります。


その後も実家で生活もし、家にお金を入れて懸命に働きました。


以前、大学卒業していないと就職も苦労するし、


資格とるのも条件につまずくことがあるって話になりました。


父は「まだそんなこと言っているのか」って言ったんです。


まだって…。


うちの両親は子供の人生とか、親の務めとか、考えていないんだなと


改めて思いました。


もの心ついてから大学までがこんな家庭環境でした。



幼稚園~中学3年、高校1年までが本当につらかった。


小さいころから、家での会話が文句か罵声をがまんして聞くってことがメインの私には、


ほかの家族みたいに家で仲良く会話できる人がいることが奇跡みたいなものでした。


会話を楽しむってことがなかった私は本当に会話が苦手というか緊張してしまいます。


大好きな相手でも、嫌いな相手でも。


なんとかこれを改善したいと思っています。


初対面の人や友達にももっとコミュニケーションとりたいです。


でも頑張ろうと思えば思うほど難しいです。


次の学校まで誰とも話さないってことも普通でした。


なので今でも、自分から面白い話はもちろんできないし、世間話も苦手です。


小さいころから聞いてきていないし参加していないから仕方がわからないです。




そんな私にも、大切な友達がいて、大切な家族ができました。


旦那さんには実はここまで深く親の話をしたことがありません。


母親のことは基本的に大っ嫌いということは知っています。


でも老後は面倒もきちんとみるってことを私が承知していることを知っています。


もう親に謝罪してほしいわけでもないです。


これが親ってものなのかな?


なんだかんだ母の愛を求めているのかな?


本当自分ってなんなんだろう。


でもひとつ言えるのは自分の娘には同じような経験も思いもしてほしくありません。


娘の人生に、親で苦しむなんてあってほしくないです。


なので、私もいろいろ克服してこれからもっと人生楽しくありたいです。















私が会話が苦手な理由2

学校に行くと、昨日お母さんと○○テレビ見た~とか、お母さんが○○作ってくれた~とか


聞くことがたまにあります。すごくうらやましかったです。


みんなは学校から帰ってもいつものお母さんがいて、一緒にご飯食べたり、テレビ見たり


しているんだなーと思うと、自分は家帰ってもどんどん変貌していく母におびえ


部屋にこもったり、わけのわからないことを言われ続けて我慢するという生活。


自分の部屋にテレビもなく、テレビもろくに見たことがなく、学校でも話についていけな


かったり。


結局、家に帰って言葉を発することがほとんどない生活をしていたので、


すごく会話が苦手になっていきました。


どんなにいい子にしても、どんなに手伝いを頑張っても(あまり飲まないでほしいので


いつも積極的に料理を手伝っていました)、決して変わらない母。


その頃は木曜日が父の休みで、その日は家族みんなでごはん食べれていました。


父がいるとさすがに泥酔まではあまりないので、すごく好きな日にちだった記憶があり


ます。


その週1のためにほかの平日は我慢するような生活を送り、わたしも成長していき、


塾に通ったりしていてそのときは家から出れるので塾嫌いではなかったです。


むしろ楽だった。



結婚したころ、旦那さんが実家にきてごはんを食べた時などに、母が旦那に


「○○(私)はねー、小さいころから料理が好きで、いつも私のお手伝いを


したがっていたのよ~」といったことがありました。


旦那は「そうなんですか~」と言っていたけど、私は心の中でイラつきました。


私が手伝っていたのは料理が好きだからじゃない。


あなたにお酒を飲んでほしくなくて手伝っていたんだ。


こういったことが最近けっこうあります。


娘も生まれ、孫としてかわいがってくれています。


でも「あなたも小さいころこうでね、あーでね」「お母さんが童謡たくさん歌って


あげると喜んでね」「私はあなたたち二人きちんと育てたから」って話してくるんですけ


ど、「えっ。。。」って絶句してしまう自分がいます。


母は酔っているから記憶にないのでしょうか。


その娘は傷だらけですけど。



私が中学生2年か3年のころ、父はリストラされました。


本当に大変でした。


私は高校受験を控えていました。


当然子供ながら進学はどうしたらいいのか不安でもありましたが、父がなんも心配ないか


ら今まで通り希望の私立でもいいと言われ気にしていませんでした。


雲行きが変わったのは中学3年の受験シーズンに入る秋頃です。


「公立にしてほしいんだって」と姉から言われました。


どうして?どうして親からなんも説明がないの?


中学3年の私がまず思ったことです。


「お父さんお母さん、言えないんだって。とりあえず公立に変えて理社今から


勉強しなよ。とりあえず塾も私立用だからもうやめたら?」


結局塾もやめ、自分なりに勉強しました。県立の高校に志望校変えました。


でも、受験は失敗してしまい、滑り止めの私立高校しか受かりませんでした。


合格発表の日、番号がないことを公衆電話から母に伝えました。


「わかった」とだけ言われ帰りました。帰ってもなんも言われず、というより


話してもらえずでした。


今わかりました。これがあの人の器なのでしょう。


私が求めている優しい母親はあの人にはなれないのでしょう。


そして、そこから2次試験も受けたけどだめで、もう滑り止めの私立しか


なくなりました。


2階の部屋にいると1階から父母姉の声がします。


自分のドアを開けた時です。


母の「もうあの子いらない。あの子いると金かかるじゃない」と聞こえました。


姉の「何バカなこと言ってんのよ!」と怒っている声が聞こえたところで


部屋のドアを閉めました。その後もなんか言い合っているのは聞こえました。


部屋の中で私はポロポロ涙がでました。試験に落ちたことより母の言葉がショックで。


次の日、まだ朝というか昼前でした。吹っ切れた母がわたしに言いました。


「死になさい。早くこれで」とこたつの机に包丁を突き刺してきました。


「…やだ…」精一杯の答えです。


このあとちょっと記憶がありません。


酔ってもいない母に死ねと言われたんです。もう生きれないと思いました。


人生においてここらへんが一番生きていたくない時間でした。


結局死んではいないですけど、母は中学の卒業式も、私立の高校の入学式も


来てくれませんでした。


高校の入学式ではほかの生徒は母と楽しそうに笑っているのに、


私は寡黙な父と葬式みたいな顔で出席していたと思います。


その後だんだん口をきいてくれるようになった母。


(酔うといつも通り文句の嵐です)


入学式からそんなんだった私は生きていることも嫌で、最初は全然高校生活を楽しめ


なくて苦労しました。


でもバイトもしたりして家にいない時間が増えた私は元気を取り戻せた気がします。


続きます。







私が会話が苦手な理由1

最近娘はおしゃべりさんだ。すごくうれしい。


たまにキャッチボールできていないけど延々と二人でしゃべれる。


お互い思い思いのことを勝手に言い合っている。まさに会話とは程遠い発声練習のような


時もある。でも娘はうれしそうにいろいろ話してくる。


聞いた質問にとんちんかんな答えを言い出すけど、うんうんそれでこれは?と再度


聞き直してなんとかわかったりわからなかったり。


これ食べたい!とかこれ見たい!とかがあればものすごいしつこく何度も催促してくる。


伝わらないと泣く…があるが、基本うんうんと理解したことを伝えると満足してくれる。


もっと大きくなってもたくさんお話できるような関係でありたいと強く思う。


思えば、自分が小さいころ(あくまでも5歳とか小学生くらいからですが)、


母と会話っぽい会話をしたような気がしない。


うちの母は、今の世の中でいえばネグレクトまがいだった。


はっきりと記憶のある小学生くらいから家をでるまでの間、小さければ小さいほど


家が地獄だった。。


すごく恨んで憎んでのときもあった。けど今はまぁそれでも母親だからなと


なんとか思える。完璧には許せていないのが事実です。


私に娘が生まれて、おばあちゃんとしてはまぁいいおばあちゃんのほうだと思う。


姉にも息子がいるがよくなついていると思う。


なので今もよく実家には行くし、ケンカ…とは違うけど空気を悪くすることもない。


でも娘が生まれて親になってみて、理解できない部分はどうしてもある。


いつもは嫌な思い出しか出てこないので基本思い出さないが、一回整理して


書き出してみようと思う。


すべての発端は、父の不倫からだ。


私が幼稚園かそこらのとき父は外に女を作っていた。


母から聞いた話だが母とは離婚して、女を選ぶつもりだったそう。


結局、母が女と話して(その場に幼い私も連れて行かれた。記憶ありです)


慰謝料なんちゃらかんちゃらの話をしたらあっさり別れると女が去って行ったそう。


でもこの期間母はきっと苦しみ、つらい思いをし、地獄だっただろう。


そんな際、父の母、つまり姑に「息子の浮気は嫁のあんたのせい」とののしられ、


自分の親にも頼れず、母は酒を飲むようになった。


その前からももちろん飲んでいたが、前のようにたしなむとか、


食事の際にとかではなく、夕方から夕飯を作るときに飲んでしまうようになった。


きっと小さいころは母が酔っぱらっていても気づかなかったと思う。


私が小学生のころになると、料理もままならず、トイレでパンツさげたまま


寝ているような状態だった。


飲む量はきっとどんどん増え、料理も作れていない状態が毎日だった。


ぐちゃぐちゃのわけのわからん料理を出してきて、作ってやっているんだから


食え!みたいな威圧をかけられる。味も最悪で食べれたもんじゃなかった。


学生時代ほとんどそんな状態でした。


苦しかったし、つらかったです。ずっと自分の部屋に閉じこもっていた気がします。


姉と「お酒をやめてください。お願いです」と頼んだとこも何度も記憶にあります。


そのときは「わかった。おかあさんもうお酒やめるね」と言って、2日くらいは


飲まずに夜も優しいお母さんでいてくれます。


でも飲みたいがピークになってその次の日には飲んでしまします。


そのときに「もう飲まないって言ったのに」とでも言うと、


「うるせぇ!だれのおかげで食えているんだ!」みたいなことを言われます。


私が中学2、3年のころくらいまで父はいつも帰りが遅く、土日休みでもないので


ほとんど会えていませんでした。


なので基本女3人で過ごす毎日。小さいころは言うことを聞かないと、


ベルトで尻を叩かれていました。どこの家もそれが普通だと思っていました。


昔だったらしつけの一環。


今思うと虐待といってもおかしくないのではと思います。


何で怒られ、どのようにしたらいいのかとかの記憶がないんですもの。


結局、相手(私たち)には、叩かれていることしか記憶に残らず、


母が何に対してしつけなきゃと思ったのかそのポイントがわからないのです。



小学校高学年のころになると、姉はもう高校生。帰りも遅く、家には母と二人。


毎日嫌でした。結局母が憂さ晴らしにあたることができるのは私しかいないのです。


その頃はもうベルトで叩かれたりとかはなくなりましたが、私の顔が父親に似ていて


見るだけでむかつくとか。その言い方がアイツ(父親)そっくりでむかつくとか。


地味に傷つくことを言われていました。


長くなりそうなので2に続きます